So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

「奪うもの」 [短歌]


奪うものとしての雨の静かさ暮れてゆく光の沈む都市の暗渠に

魚たちの目はひらかれて映しゆく死者たちの貌その横顔も

ほの緑しつつ初夏木漏れ日も水底ふかく揺れるその日に

帰るべき家などもなく遠いまちの路樹ゆきすぎるひとたちの背に

夏の日の光の記憶孕む熱も樹木たちの葉もいまは凍えて

深みゆくわたつみの青そのうえを声なく渡る灰の鳥たち

憩うべき岸辺もなしに漕ぎいだす小舟に水の夕暮れに澄み

腕につつむひとつのからだであるきみの胸にひろがる空の高みを

息たちは夜に放たれ低く這っていま獣めくふたりぼくらの

髪こそは深紫に光りつつ夜に融けあう闇の深さに

さまよいつつもとめあう指そのさきより浸しゆく静寂は乱れ

乱れゆく息嘯に胸揺らぎつつ絡めあう四肢けれどいまは

触れるべきゆびなどはなく彫像のまなざしの向く窓秋の日に

散り交うは桜紅葉の光散るひとなき街の舗道に憑くか

たましいはかたわらに寄りささやくは遠い日のこと春の日の夢

うつつともゆめとも知らぬまどろみの深くあたたかく陽ざしはゆれつつ

なつかしむその日その日のつかのまの穏やかに過ぎ眠るごときを

父母も遠くさりゆくいまはすでに安息はなく夜に惑えば

虫たちの声も細みて草の葉に露結びゆき永遠の夜

踏切に最終列車のゆきすぎて声なくわたる幾つもの影

都市、永久機関 そして自動人形 1 [短歌]

都市、永久機関 そして自動人形 1

いつのころからか、夜の大気は海の底のようになっていた。靄と言うほどにも濁るわけではなく、しかし、その都市の大気はあきらかに粘度を増して感じられるようになって。グラスにそそがれたアブサンの緑に似た光が粘るように街路灯を包みはじめ、その夜にうなだれて歩むひとびとの影は真夜中の陽炎のように揺らぎ、やがてその変異は真昼に及んでいったのだった。   
街の騒音を含む物音はいつのまにか鈍く歪み、鬱々とした静けさがひたひたとひろがりつつあったし、それは奇妙な息苦しさとしてひとびとには感じられるのだった。すべてが水の底に沈んでしまったかのように。
狭い海峡の海は深く、その深淵からひとつのトランクが引き上げられたのは、100年前の、粛清の暴力が荒れ狂う、海に季節外れの雪が沈む早春のことであったが、その都市は灰燼に帰し、再び興された新都市には淡い奇妙な影がゆきかい…

7月の街には路樹 陽は黄ばみ石灰色の街崩れゆくその日を
戦争の過ぎてゆく冬ぼくの腕につつむあなたの流す血は碧
眠るともこときれてゆくとも知れず抱くきみの胸の底に心臓はなく
粛清の日は吹雪して訪れる沈黙の貌父母の写真燃え尽き
安息なく遷移する悪夢閉じる叫び浮遊する魚たちの目はひらかれて

アネロイドは静かに歪み青銅の樹木に消える鳥の声など
老いるように倒れてゆく路樹受難節の空の記憶もいつかは途絶え
白い布に包むきみの背、足そして髪たゆたえば3月、空青く午後
いつまでも歌い続ける唇によせてゆく耳えふれえぬまで
老いを知らなく死にゆくこともない胸にいま重ねあう肉の冷たく

かつての夜響く晩鐘街にみちて暗殺の血は暗渠に流れ
血の滲むきみの傷いま胸につつめば身構える硬さもついに解けて
不意に凍る雨たちの静止静寂なせば裂けゆく「時」に眠る人形
蔦の葉は深夜にひらき真葛なす紫の華露匂う刻
粛清の冬旅立っていった少女少年削られぬ鉛筆ノート真白く





水のあやなみ Ⅱの41 [水のあやなみ Ⅱ(ダークファンタジー)]

そして、一匹の犬が森の間の小径を歩いている。黒いつややかな毛に身を包む細身の、しかし巨きな犬だった。その犬はやがて、誰一人いない地下道を微かに爪の音をたてて歩いてゆくのだった。歩く闇…という印象も、そして漆黒の狼ようにも見え、それは同時に烈しい意志で死より甦った神のようにも思えた。死の極みがそのままに生であるかのような、あるいは純粋な生の衝動の具現、あるいは集合記憶としての幾万もの死、そして冬の枯れ野の朽ちてゆく草、あるいは滅びた都市の記憶のようにも思えた。そのすべてを水の影のように湛えて、おおきな黒い犬はあるいてゆく

神の犬、という言葉がある

…それはいつもあなたの後を追って歩く。離れることはない。全くの沈黙と共に、双眸を静かに開いてあなたを見つめながら。あなたはけれども、その視線を逃れることはできないその黒い神の犬

それはいま、ふたりのところに歩いてゆくのだった


「どこかまだ静謐なままゆきさきの見えない罰を受けている気がするよ」
「罰…罰だとしたら罪はどこにあったのかしら」


まして、神の記憶にとりこまれながら、いつまでも自己展開を続けるほかはないぼくたちは…

タオルは乾いていた
その乾いた感触のなかに残るかすかな水の気配


「わたしたちが光を求めたとき、わたしたちは光に…つまり自分自身に閉ざされたのだわ.でもあなたはわたしではなかった.わたしを苦しめ、わたしに侵入した」
「ほかに…どうすればよかったのだろう」
「宿命だったのかしら」
「宿命などはないさ…」
と、ぼくは言った


水のあやなみ Ⅱの40 [水のあやなみ Ⅱ(ダークファンタジー)]



崩壊する精霊たちが雨となって降るような、その都市の朝、その雨は水晶の球に似て、けれども靄めくこともなく大気は澄み、すこし冷えていた。人の姿のない通りの遠くまでも見通せるその雨の中を赤い傘をさし少女は歩いている。低く傘を広げていたから、少女の顔はその下半分しか見えなかった。その風景のかすかな違和をそこにいる記述者のひとりが感じたとすれば、瞬間がいつも先にいってしまうという遅れ、もしくは取り残されが、この世界にはない、ということだろう。この世界はいつも記述者の認識の遅れを待っていてくれるかのようだった。そのような世界のなかを赤い傘の少女はあるいてゆく。放心をうかがわせるような…あるいは憤怒とともに。

その表情の硬質は、どこか人形めいてもいて、けれども生々しさがそこに感じられるのは、いくつもの表情が重なるように翳りのようなものとなって見いだされるからでもあるだろう。あるいは予兆としての認識を、その少女が持っている、ということかもしれなかった。予言者のように。すべては未成のまま可能性として示されるのみで、その不安のなかに吊られているような

雨は続いていたが、空は明るく、雲は薄くなっていた。路樹の緑は濃く、都市には珍しい樅だった。舗道には灰色の石が敷き詰められている。かすかに緑を帯び、摩耗が進んでいた。雨はその軽石のような表面に吸われて、少女の足音も密かなものにしていた。バスが一台過ぎてゆく。灰色の影のような人たちを乗せて。歩く人たちも皆、傘をさしつつうつむいて歩いてゆく。淡く隈のような疲労を、その青ざめた顔の色にのせて。あるいは、どのひともみな、何かを求め、それがかなわぬままになっているのかもしれなかった。苦痛と不安のなかに置かれて、そこからぬけだすこともかなわずに。もし、煉獄という場所があるとすればそれは、このような場所でもあっただろう。そのとき一瞬、少女の表情がやわらかくほころび、少女は微笑んでいた。その視線のさきには、舗道のガードレールにとまる1羽の鴉が、そのつややかな黒のすがたを丸くするようにして、なにかを凝視しているのだった。

水のあやなみ Ⅱの39 [水のあやなみ Ⅱ(ダークファンタジー)]

「存在は、たとえ自らが、その投射もしくは模像として生み出したものだとしても、そこに認識がある限り…そして、自己認識は結局言述に回収されるとしても、常に言述を裏切り、それを超えてゆく感覚をもつかぎり、それは他者であるという存在の要件を満たしている。夢に出てくる人なるものはすべて他者に他ならない…と言ったのはあなただったわ」
「完璧に覚えているね」
「ええ…わたしたちそのものが、多分、神の完璧な記憶そのものだから」
すこし背をまるくするようにして、湯船に女性は腰をおろしたまま続けた
「わたしたちは神の記憶に取り込まれてしまったのだわ。この見えない檻のような世界に」
「そして、それを流れ出てゆくものだろうね…思うのだけれど」
「なに?」
「思っているのは…ふたつ。ひとつはこの状態のぼくたちにもセックスはできるかな…ということ」
「…ばか」
女性はすこし笑った。そして軽く頬をたたくふりをした
「もうひとつは…」
わたしは続けた
「ぼくたちは、神のあやつりを結局は逃れられない人形だったのではないかということ」
「どうかしら…」
女性はすこしうつむき、バスタブのふちを掴むようにした。その細い腕に、どこか負の陰翳のように鳥肌がうすくたつのを見た

「もう1年以上もこうしていた気がするわ」
「ぼくたちの作者が迷っていたのさ」
「ひどい作者ね」
「記述に記述をとりこむこと。それが決定されてゆくことはいつも奇妙な齟齬をともなう。遅れるものでありながら、それは決定された未来から現在に立ち戻ろうとし回帰しようとする、結局は仮想でしかない時間というものの不快。作者は結局、時間など存在しない、あるいは虚数領域にあって、それを実体としては記述できない、と考え始めたからかもしれないよ」
「単に怠けていただけだわ」
「そうかな」
と、わたしは笑いながら、女性の背の水滴をタオルでおさえるように拭いてゆく
「上がって」
とわたしは言った
バスタブの水が揺れ、窓からの陽光がその表面に散乱した
「でも、なぜわたしとあなただったのかしら」





「なぜなら、みずからに閉ざしたものは縮んで、やがて消えてゆく他はないから。語ろうとするもの、自身がそこにいると告げるものは閉じない」
「そうだとしても、なぜ、わたしとあなたなの?」
その南西と北東に開けた窓を持つ室内…二人には広すぎる場所ですらある部屋は、都市の中空に吊られているようだった
そしてその2方向からの陽光が異様なものであることに気づいた
「いまは何時なのかな…」
「いつかしら…」
女性は、すこし目を細くして窓際に置かれた釣り鐘に似た硝子器の中にある時計を見つめた
午後2時には、まだすこしある
「出ましょう」と女性は言い、立ち上がって湯船のそとに足をつけ、湯船の端に腰をおろした

髪の先が濡れて、肌に張り付いている。ふと…車を借りよう、と思った。この精緻きわまりない世界を好きになり始めている。その創造者は、非在というひとつの死の様態にあるとしても、それによって生み出されたこの世界はやはり「いのち」に満ちているのではないか
「拭いて」
と女性がいった






水のあやなみ Ⅱの38 [水のあやなみ Ⅱ(ダークファンタジー)]

たとえわずかであっても、その背が冷えていることの、痛みとして伝わること
伝わることで、かたちを成しゆくなにか。感覚がそこにあることの前に置かれる原感情のようなもの。
言葉もなく身をよせあう死者たちで今ぼくたちはあることの、生にそうている頃の悲しみの模像
「シュミラクラ…なぞるように記憶から立ち上げられた…わたしたち…」
女性の呟きは、けれども透明で明るさを含むように感じられた
その時間の推移。わたしたちの感覚はなにひとつそこなわれていない。いまもなおこの身体の頸木に囚われて


不意に不吉としか思えない感覚が来た
ざわめきでもなく、冷たさや寒さでもない、あるいは貧血してゆく感じでもない
輻輳する夢たちが逃げ場を失って彷徨うように、あまりにも満ちてはじけあうように…あるいは…夢であることの不快…醒めきれぬことの不快
回収されないまま、移ろうものの不快
そのどれでもない気がした
ぼくたちは何かから、逃れられずにいる
「わたしひとりであろうとしたとき、わたしはわたしでなくなる」そう言ったのはだれか

部屋を、わたしたちは眺めていた。湯は滾滾と流れ続けている。かつて氷であったときの記憶を、その水であることにもとどめて
女性がその手を真鍮の蛇口にのび、流れ出す水の勢いをゆるやかにし、湯のコックをすこしひらいた

「ぼくたちの認識は、ひとつのモード…コームアップされた定型化をうけいれているのだろうか.感覚は圧縮され、言語化可能な記憶にまでおとしめられ断片になってゆく」
「いま…雪が降っているわ」
「雪…?」
「光のとどかない、深い海に」


言葉の幽霊たち
「それは幻聴?」

と女性は言った

「わたしたちのからだ…」

「思惟を担う事象としての身体」
ぼくは続けた
「環境の共有がぼくたちの時間をひとつにするわけではないし…逆に空間を隔てているわけでもない…」

ぼくはタオルに手を伸ばした。女性が湯船から立ち上がるのがわかっていたかのように

そして、女性は深い海の底から浮かび上がるように立ち上がった。

水のあやなみ Ⅱの37 [水のあやなみ Ⅱ(ダークファンタジー)]

包みをひらくと、内側は白いパラフィン紙に包まれていた
石鹸だった
滑らかで硬い感触のパラフィン紙をひらいてゆくと香りが周囲にひろがりはじめた.淡く、そして濃く
「…桜の匂い?」
「これはアーモンドだわ」
「きみはなぜそんなことまで」
と、ぼくは笑った
「記憶にあるもの」
「記憶?」
「憤怒を観照せよ…といってこの石鹸をわたしに渡したのはあなたよ…これと同じ種類の石鹸を」
「ちょっと待って」
とぼくは言った
「そう言おうとしたのは確かだし、多分夢の中でそう言ったかもしれないが…口に出したことはない」
「それもわかっているわ」
と女性は笑った「でも…」
女性の眼がぼくを離れ、わずかに下を向き、その光を強くした
「わたしたちの記憶はいま、その時が現在であったときよりもずっと鮮明で、細密に現前できている。過去と未来からも干渉波がたちあがり、その質量を大きくする。これは繰り返された現在なのだわ」
「幾たびも読み込まれた本のように…ということ?」
「ええ…そして」
女性は続けた
「読むたびに、その姿を変える本のように」
「それは物語じゃないね」
と、ぼくは笑った
女性が言った
「ええ…わたしたちの生は、いつだって物語などじゃなかったわ」
ぼくは静かに女性の背に頬を押し当てた。匂いのしない水の感覚。背はすこし冷えていた。遠くからアーモンドの匂いが漂ってくる。細かな波のように




みぞれ雪降る日のために その9 [みぞれ雪降る日のために]

風が烈しく樹木を揺らし、一瞬のうちに落ち葉を吹きはらうように舞い上がらせた
そうぼくは思ったのだけれど

それは鳥たちだった.褐色の鳥…枯草色の小形の鳥たち.群といってよい数が、いっせいに飛び立ち左の空に上がっていった
風などはなかったのだ

鳥たちが去ったあと、その大きな枯葉がひとつ、またひとつ枝を離れ揺らぎながら落ちてゆく.真下に.風はない
枯葉はその輪郭をのみ、繊い金緑に光らせて揺らぎながらゆっくり旋回しておちてゆくのだった
それを雪子さんも見ていた
その横顔に翳りのようなもの憂愁のようなものが浮かび、つかのまに消えていったのだが、ぼくはそれを見た
かすかに、かたわらのそのひとの寝息がきこえている

「けれど、吊られないものはまるく内側にくるまってゆく.時間は、繋辞にとりこまれ、仮構を投射しつつ織り上げられてゆく…時間性なしに存在し得ないという意味でも神は仮構だ.逆に…」


触れているそのひとの身体からあたたかさが伝わることにぼくは、驚いてもいて、なにかが均衡のようなものを失い揺れつづけているようにも感じていた.不安より静かに、けれどもさらに大きく揺れている.足元のつややかな木の廊下の床さえうねるように揺れているようにおもえて…ぼくはすこし酔うようだったから、目を閉じた

風景が見えた

「ムジールのいう…いまだ目覚めぬ神のもくろみ…あるいは…関数的に揺れ動く、同時に因果律には縛られない偶有によって、わたしたちの世界は飛躍をくりかえす.その飛躍もまた、この世ならぬ天使の翼だ」

その黒い本には、ぼくに理解できない断章が多く…ほとんどといってよいほど多く含まれていた.けれども、その断章をぼくは暗記し始めてもいる.そのことに、微かな怯えをぼくは感じてもいる.うすく濁る深い沼の水を覗きこんだときのように

その土地の夏…まばらな樹木の林、その高い梢はまるく揺れ続け、その林のなかに沼があった

水のあやなみ Ⅱの36 [水のあやなみ Ⅱ(ダークファンタジー)]

暗く冷たい水の記憶が再結晶をはじめていた.感触、匂い、音として.そしてざわめきと冷たさとして.それは、いま…と感じられないことで、記憶にとどまってもいる.けれども記憶として現前の感覚としてではないのは、何故なのだろう
現前の感覚でなくしているのは、何だろう

海の感覚.巨大と言ってよい揺れの、その冷たさ.すべての体温は奪われて、その上にあるはっずの空すら、見上げることができなかった…だがいまここにいるのは?この澄んであたたかな水の中に見つめあって

水は明るく、その湯舟の明るい緑色を反射してぼくたちの皮膚を淡青に見せ、にもかかわらずほのあかく女性の頬や耳は染まっていた.健康子供のように

女性は水の中で目を開きぼくを見つめていた.ぼくもそのようにしているのだから、ぼくたちは魚の目を…あの瞬きせず放心したような目をもっているのだろうか…放心…放心のように遠ざけ閉ざしている記憶があるのだろうか

女性の薄青くも黒い目が…見開かれたまま…ぼくを見つめている.あの魚たちのように

あの魚たち?記憶はゆるやかに構築されて、すぐには近づいてこない.水平に重ねられてゆく横たわる塔…その部屋の透明な床は、やはり薄く濁って…濁りながらその透明さのために支えを失ってもいる.あるいは宙に吊られて

不意に、女性の口から気泡が吐きだされ、暴れるように身体が水から出た
ぼくも驚いて水から上がった

女性はすこし呼吸を乱しながら、上体をおこして笑った.笑い転げるように…十代の少女のように軽くはなやかに
いや…十代の少女そのままに.そのこと…そのこと
その少女の日々が雪崩こむように現われる.その日、すべての叙述する感受性を呪いと祝福として受けいれたように

浴槽のかたわらには、小さな紙包みがあった.水引のような紐のかかっている…ぼくは手をのばし、その紙包みをとった.重さ、そして匂い
「…石鹸かな」
「杏の花の匂いがするわ」
と女性は言った




みぞれ雪降る日のために その8 [みぞれ雪降る日のために]

「ここに来ておすわりなさい」
と雪子さんが言った

窓の外は、明るい光に満ちて、でも…よく刈りこまれている高麗芝の先には木槿の葉が落ちてベンチを埋めようとしていた
ぼくは雪子さんの隣にすわろうとしたのだけれど

「りょうこちゃんの隣に座って」と雪子さんがいう.陽光が藤の長椅子をあたたかにしている.唐草の織物の表面も、あたたかそうに見えた.でも、それよりもそのひとの背の丸さがあたたかそうに見えていた.それを不思議にも思ってもいる.眠るそのひとは、いつもの厳しさから解き放たれ、あたたかさとやわらかさのうちに、どこか、幼ささえ感じられもしたから

…幼いものは水に浮かぶ月、概念はそれをすきまなく満たそうとするが、それは双曲線の座標軸への漸近に似るだろう.無限に接近し、けれども触れ得ないふたつの線.触れて、互いにみたそうとするときそれは、月を掬うことのように指のあいだからこぼれおちてゆく…だが、無限は無限に依って満ち足りる



黒い本にあった漸近線と言う言葉をたしかめるために、旧市街の公園にある図書館に秋、ぼくは出かけたのだった.霧の日…でも、図書館の窓の近くは明るくて、ひどく旧い、群青色の関数論の本をひらくと、そこには幾つもの曲線と数式が並んでいた.美しく整然とした図形…数式


音…が聞こえている.かわいた軽い音…砂よりも軽く.風に交じって微かに.でもそれは柔らかな音ではない.視野の片隅で揺れているものを感じてぼくは外を振り向いた




前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。